今回は寄稿記事です。ライターはインターネットを通じて知り合った友人で、シネフィルのナカヤマヒジリ氏です。前回記事はこちら。
映画『TITANE/チタン』について、その魅力をふんだんに語ってもらいました!大変重厚なボリュームになっておりますので、刮目セヨ!

あらすじ
幼い頃、交通事故で頭にチタン製のプレートを埋め込まれた少女・アレクシア。事故の後遺症から、彼女は“車”に異様な愛着を抱くようになる。
十数年後、成長したアレクシアは、モーターショーで働くエロティックなショーダンサーとして注目を集める一方、内には制御不能な暴力衝動と深い孤独を抱えていた。
やがて衝動を抑えきれず、ある事件を起こしてしまった彼女は、逃亡を余儀なくされる。
行く宛のない彼女は、自身と面影の似た行方不明の少年になりすまし、少年の父である消防署署長・ヴァンサンのもとへ転がり込む。
息子を失った孤独から心身を壊し、薬物に頼りながらトレーニングに没頭するヴァンサンは、10年ぶりに再会した“息子”を疑うことなく受け入れる。
過去を隠し、“まったく別の人生”を生きるアレクシアと、“息子”として彼女を受け入れるヴァンサン。
奇妙な2人の間には、やがて奇妙な絆が芽生えていく。
だが、共同生活を送るうち、彼女の身体には“ある変化”が訪れ始める──。
序文
端的に言えば、常軌を逸した映画である。
引くほどエロティックで、目眩がするほどグロテスクで、そして途方もないラブストーリーでもある。何言ってるかわからないかもしれないが、それこそが『TITANE/チタン』だ。
『RAW 少女のめざめ』で世界を震撼させたジュリア・デュクルノー監督が手がけた本作は、ボディ・ホラーというジャンルを極限まで研ぎ澄ませた作品である。
『ザ・フライ』『鉄男』に代表されるように、ボディ・ホラーとは肉体が禍々しく変化・変容していく恐怖を描いた作品が多いが、本作ではそこに「性」と「愛」が加わり、「肉体の変容」に深い寓話性を帯びている。
『ショーシャンクの空に』のような普遍的名作とは限りなく対極に位置する超アヴァンギャルドな作品だが、本質は普遍的名作と比べても遜色ないほどに「純愛」を描いた傑作と言って差し支えない。
柔らかい肉感的な身体に冷たい無機物のチタンプレートを埋められた、半人半機の異形となった主人公・アレクシア。
血と鋼が混交した超常存在と化した彼女の身体の変容は、徐々にその心までも変えていく。
戦慄するボディ・ホラーは、心の機微を描いたヒューマンドラマへトランスフォームし、やがて生命を讃える神話へと昇華していく。
ホラーから神話への跳躍でますます何の映画かわからなくなりそうだが、本作の持つ「異形の美しさ」が一人でも多くの方に、本記事でその魅力が伝わればと思う。

① 性(エロス)と性(ジェンダー)
本作を語るうえで避けて通れないのが、露骨なまでの性描写の数々だ。
冒頭のモーターショーでは、エロティックなダンスやその直後のシャワーシーンを通して、女性の身体性を強調する演出が続く。
轟くエンジン音。ギラついたハウスミュージック。過激な衣装と扇情的なダンス。
こうした演出はモーターショー自体がストリップショー的な「商品化した性」のカリカチュア的な表現である。
これらの一連の表現は、女性の肉体的なアイデンティティをこれでもかと誇示している。
そういった消費的な性的描写の対比として位置するのが、問題の「カーセックス」のシーンである。
これは本作の最も奇天烈でぶっ飛んでいる描写と言っても過言ではない。
なぜなら、車内でするセックスではなく、“車そのもの”とセックスするからだ。
事故の影響から”車”に性的嗜好を抱くアレクシア。
あられもない姿のまま、雄々しいエンジンの駆動音に導かれる。
激しくサスペンションする雄性の化身として佇むマッスルカー。
誘惑されるがまま乗り込み…という具合で事に及ぶ。
対象こそ車だが、強靭で魅力的な異性と強く熱く交わりたいという意味合いでは、彼女の行為は人が本能的に有する本能的な「性」(”せい”であり”さが”)と言える。
心理学者のフロイトは「生への衝動=『エロス』」と提唱したが、これまでの物質的な性描写と違い、まさにこのシーンは無機物(車)と有機体(人間)との強力な融合であり、一連のシーンの妖艶な表現も相まって、官能的なエネルギーの爆発を感じる。
かなりたじろぐほどに直接的なセックスの描写ではあるものの、人と異形の神とが交わる神秘性、そしてそのまま天啓を受けたかのようにエクスタシーに体を委ねて達する姿は、大聖堂に飾られた宗教画のような崇高さ(とエネルギー)を感じる。
なぜこれほどまでに性を強調するのか。
それは本作の核に、社会的性(ジェンダー)が含まれているからだ。
物語が展開すると、アレクシアは女性という身体的性を放棄し、男性性を装いざるを得ない状況に陥る。つまり、生まれ持った身体的性と社会的性を自ら否定しなければならないという抑圧の中に置かれる。
男性性のジェンダーを演じる彼女だったが、あらすじの通り「とある変化」がそれを許さない。
社会的性に対して身体的性が報復するかのごとく、恐ろしい肉体の変容を伴って彼女へ襲いかかる。
本作の本質は「肉体的なアイデンティティを切り離せないホラー」である。
ボディ・ホラーにおける恐怖とは、肉体が禍々しいビジュアルへと変容していく恐怖もあるが、身体的性の変化により自身のジェンダー(ひいては自己存在そのもの)が崩壊してしまうという深化した恐怖が本作の特徴だ。
そしてこのジェンダーが崩壊する恐怖を突きつけられるのが、主人公のアレクシアだけでなく、もう一人の主人公・ヴァンサンにも及ぶ。
彼は父親・男・上司として”強くあらねばならない”という社会的圧力に脅かされ、強い男性性に変容し続けないといけない恐怖も見どころである。
② 流血、出血、血縁。
本作の性的なシーンは凄まじいが、グロシーンも半端じゃない。
本作を離脱した人の多くが、刺激的な人体破壊描写を受け入れられないと耳にしたことがある。
前半は肉体の破壊に執着したかのような凄惨な残酷描写が続き、目を背けたくなるようなシーンが非常に多い。
スプラッター映画のような血が一気に噴き出すといった誇張された演出ではなく、肉体の破壊そしてそれに伴う「痛み」のリアリティな表現に重きを置いている。
特にトイレのシーンだけは本当に飛ばしていいと思う。
(何度も見ているがこのシーンだけはいつも直視できないほどキツイ)
だが中盤以降、逃亡者となったアレクシアとヴァンサンとの邂逅からストーリーは、心の「痛み」そして疑似家族と「血縁」のドラマへと劇的に変容していく。
ここまで見ればもう(肉体的に)痛いシーンはないので大丈夫。
というより、むしろ『TITANE/チタン』はここから始まる。
息子を失ったヴァンサンは、家族を失った「痛み」に苛まれ、その埋め合わせのように過酷なトレーニングと投薬で肉体を痛めつけ、喪失した”男らしさ”を取り返そうとする。
老いて衰えていく肉体をステロイド漬けにし、トレーニングルームで一人叫ぶ姿は見ていて本当に「痛々しい」。
一方、アレクシアは女性性を封印して男性と生きる覚悟を決める。
鼻骨を力ずくで変え、長い髪を丸坊主に剃髪し、体にサラシを巻きつける。
今まで自分を保ってきた”女らしさ”を捨てていく姿もまた、同じくらい痛々しい。
このようにそれぞれが肉体のアイデンティティと付随する性の痛みを引き受けているのだ。
フロイトは生の衝動=エロスの裏返しとして、「タナトス(死の衝動)」という自己破壊を導く欲動も唱えている。
ヴァンサンの男性性への執念も、アレクシアの女性性の放棄も、このタナトス的衝動の現れにほかならない。
異なる痛みを抱えた二人は、いびつな共同生活を始めることとなる。
やがて痛みを分かち合う中で二人は「愛されなかった/愛したかった」という互いの心の喪失に気付き、その喪失を埋め合っていく。
男と女、エロスとタナトス、体の痛みと心の痛み…ここまで対比を中心に描かれ続けていたが、唯一この場面でその全てが溶けて混ざり、血縁を超えた「親子」という形で家族の絆が萌芽する。
壮絶な痛みと流れ出る血を埋めたのは、血を超えた不可思議な関係性だった。
他者の痛みを理解し合えた先に、二人は本当に必要としていたものに巡り会う。
血縁という枠を破壊し、新しい家族の形という可能性を示唆した矢先、物語はクライマックスへと加速していく。
③ 「マタイ受難曲」
本作は「性」と「痛み」に立脚した物語である。
そしてもう一つ、本作において非常に重要な要素が音楽である。
説明の少ない本作だが、キャラクターのその場面で心理を的確に映し出すように、随所に秀逸な楽曲引用がなされる。
The kills「Doing It To Death」
─ モーターショーでのダンスシーンで流れる。車の上で妖艶に舞うアレクシアの姿は、”死ぬまでやめられない”快楽に身を幾度となく委ねてしまう歌詞と重なる。
Caterina Caselli「Nessuno mi può giudicare」
─ 曲名通り「私は裁けない」と言わんばかりに、彼女の暴走は誰にも止められず、一人また一人と血祭りにあげていく。
Zombies「She’s not there」
─ 息子となった彼女に対しヴァンサンが聞かせる。「彼女はどこかへ消えた」と彼自身も薄々頭でわかっている事実をつきつける。
Future Islands「Light House」
─ 自分の壊れた部分(闇)を大切な人に見せる怖さと、でもきっと受け止めてもらえるという救い。アレクシアそしてヴァンサンそれぞれが互いの弱さを受け入れ合っている。
Lisa Abbot「Wayfaring Stranger」
─ 死を帰郷に見立てた伝統民謡。アレクシアが己のジェンダーへと還らんとする象徴的なシーンで用いられる。同時に息子の死をヴァンサンが受け入れざるを得なくなる。
中でも特に示唆的でかつ、本作を聖なる物語へと昇華させた音楽が「マタイ受難曲」である。
『TITANE』のクライマックスで流れるマタイ受難曲は、単なる挿入音楽ではない。
それは万人に愛を説いたがゆえに、筆舌しがたい痛みを受けた末に処されたキリストの受難を想起させる。
そして、楽曲が引用されるクライマックス。
アレクシアが自らの業のメタファーとして”あるもの”を抱えて這うように進む場面は、血を流しながら十字架を背負い、ゴルゴダの丘を登るキリストと非常に重なる。
彼女の受難の旅路の終わりには、生命が感じる「究極の痛み」が待ち受ける。
この瞬間こそ、なぜ本作が「途方もないラブストーリー」なのかを体験するはずだ。
車とのセックスから始まった奇譚は、聖書のような荘厳さと慈愛のうちに幕を閉じる。
一体誰がこの結末を予想しただろうか。
『TITANE/チタン』とは、生命が辿る痛みの果てに在る愛を、一人の女性を通じて受難劇的に描いた神話なのである。
結び 普遍的な愛の神話
アレクシアの“変容”の物語の結末は、生命そのものを包括した「愛の物語」であることに気付かされる。
肉体と金属。エロとグロ。性と死。奇譚と神話。
それら相反するものが融合した様はまるで、チタンの語源である、天の神・ウラヌスと地母神・ガイアの息子「ティーターン」を想起させる。
天地を結ぶ超越存在の名を関した本作は、まさに神話的傑作と言っても過言ではない。
凄惨な痛みを伴う受難劇を経て崇高な愛へと至る本作は、まさしく性(エロス)と痛み(タナトス)に彩られた現代のギリシャ神話だ。
暴力と慈愛が融け合った異形の映画体験をぜひ、味わってほしい。




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