猛暑の気配が忍び寄る季節になりましたが、いかがお過ごしでしょうか。
早速ですが、今回は寄稿記事です。ライターはインターネットを通じて知り合った友人で、シネフィルのナカヤマヒジリ氏です。何度も心を揺さぶられる映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』について、これでもかというほど語ってもらいました(本文中に出てくる「友人」は僕のことじゃないですからね!!)。それではどうぞ~!
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「胸糞」「憂鬱」「後味が悪い」「嫌い」「救いがない」――。 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』のサジェストにはこうした物騒な言葉が並ぶ。こういったネガティブなフレーズが先行するせいか、筆舌しがたい凄惨な映画だと思われてしまっていて、視聴を躊躇う方も多くいる。
しかし、本作を見た上で思うのは、果たして本当にこの映画は二の足を踏むほど凄惨な作品なのだろうか。この記事を通じて、少しでも本作に興味を持っていただければ非常に嬉しく思う。
以下、簡単なあらすじ。
あらすじ
遺伝性の目の病気に冒され、徐々に視力を失っていくセルマは、同じ病を抱える一人息子ジーンの手術代を稼ぐため、女手一つで日夜工場に勤め、必死にお金を貯めていた。
そんな彼女にとって、息子以外の唯一の支えは、小さな劇団が催すミュージカルに参加することだった。
しかし、ある出来事をきっかけに、セルマの人生は転落の一途をたどっていく……。
3つのポイント
あらすじの通り、セルマには「病気」「シングルマザー」「貧困」という三重苦が重くのしかかり、挙句さらにそこから転落していく。実に陰惨なストーリーである。作品名だけ知っていてまだ観ていない人の多くが、このあらすじだけで辛くなって視聴を諦めてしまう、なんて話もよく聞く。
結論から言うと、本作は紛れもなく「鬱映画」に分類される。ただ、娯楽として嫌な気持ちになるためだけの鬱映画ではなく、“あなたの価値観を試す”ために鬱屈とした展開が用意されている鬱映画だ。
これがただの鬱映画でないことを、3つのポイントで解説したいと思う。
ミュージカル要素
本作はミュージカル映画である。『グレイテスト・ショーマン』や『レ・ミゼラブル』と同じジャンルなのである。
しかし、これらの既存作品とは決定的に違う点がある。 先のあらすじにあるように、セルマにとって辛い現実を唯一慰めるものが“ミュージカル”だった。
貧しさ、息子の病、そして自らの失明への恐怖。それらの現実を前にした彼女は、心が壊れないように仕事中に一人、ミュージカルに思いを馳せる。
すると――
工場の機械は規則的にビートを刻み始める。 すると黙々と働いていた従業員たちが、一斉にステップを踏んで踊り出す。どこからともなくリフトが降りてきて、セルマを宙へと誘う。彼女はメロディを奏でる工場で高らかに歌い上げるのだ(このあたりはあまりに唐突に始まるので、初見だと間違いなく面食らう) 。
不思議な夢見心地のミュージカルが挿入され、これはなんなんだと当惑させられるのも束の間、唐突に工場のプレス機からけたたましい警告音が発せられるミュージカルは無常にも終わりを告げる。
この映画のミュージカルシーンは、すべてセルマの妄想の産物である。
すべてが妄想の産物であることにゾッとするかもしれないが、(少し乱暴な言い方をすれば)苛烈な現実による極度のストレスで、重度に心を病んだ人の頭の中を描写する場面として、これ以上に説得力のある映像はそうそうない。
転落の一途を辿るセルマの精神がさらに耗弱していくと、妄想は弱まっていき、やがて今この瞬間が妄想か現実かどんどん曖昧になったまま、彼女は歌い出す。
セルマが最後に、いや最後から2番目に歌った歌は、そのシーンの仕掛けも相まって、本作がミュージカル映画でなければならない理由が明らかになる。
ドキュメンタリータッチで描かれる現実
妄想のミュージカルの華やかな演出とは対照的に、日常パートはホームビデオのようなハンディカムで撮影されており、あまりに現実すぎる映像が妄想に対して強烈なカウンターになっている。
さながら『アフターサン / after sun』を彷彿とさせる荒い画質と生々しいカメラワークは、セルマというキャラクターに強烈な生活感を与え、彼女の乾いた日常をより痛々しく映し出す。

リアリティラインがちゃんと困窮している人に近く、こういった一向によくなる兆しのないリアルな陰惨さこそが、本作を鬱映画たらしめる最大の要因だと感じる。
このドキュメンタリータッチは「そこに確かに存在するが、記録された映像だからこそ一切介入できない」というジレンマを観る者に突きつけ、セルマへの憐憫を一層強く抱かせる。
同時に、視聴者はセルマを助けることはできないが、彼女の生活と妄想を垣間見ることで、後に触れる「どうしてその運命を受け入れられるのか(あるいはそんな決断をしてしまうのか)」という本作の問いかけに、半ば強制的に参加させられる。
この問いかけもまた、本作がしばしば物議を醸す理由のひとつだと個人的に思っている。
セルマの決断(と問いかけ)
本作を「大嫌い」と評した私の友人は、「セルマの行動のすべてが愚かとしか思えない」と断言した。
ネタバレにならない範囲で端的に言えば、セルマを助けようとする人は周囲にそれなりにいて、しかも献身的に支えようとする。しかし、それでも彼女は、その手をことごとく振り払ってしまうのだ。
すでに不幸なのに、なぜ助けも借りずにもっと不幸になろうとするのか。なぜ妄想に逃げ込むのか。
こう書くと、セルマはどうしようもない人間のように映る。だが見方を変えれば、それは他者からの憐れみを拒絶しようとする気高い生き方とも取れる。
「愚かさ」と「気高さ」。
本来対極にあるはずの感想が、ひとつの映画から同時に生まれる。それは実はとても稀有で、凄いことではないだろうか。
もちろん私自身、この映画が大好きで、大嫌いだ。
それは、人生の節目節目でこの映画を観るたびに、セルマを「許す/許さない」の価値観が自分の中で揺らぎ続けていて、その時々で見えなかったものが見えてくるからだ。視聴者のそのときの心境によって、全く異なる感想が生まれる。そんな映画はそうそう滅多にない。
最後に
この作品は、その日のコンディション、もっと言えばこれまで歩んできた人生によって、受け取り方が全く変わる。むしろ、1回目と2回目で感想が180度ひっくり返ることだって珍しくない。
仮に結末までネタバレされたとしても、おそらく本当の意味でこの映画が問いかけたかったことが、心には全く響かないだろう。
文字だけの簡単な結末はこの映画にとって何の意味もなく、むしろ途中にある多くの出来事を通じて、あなたの中に生じた様々な解釈をこの映画は求めているのだ。
ここまで観る者を揺さぶり、惑わせ、感情をめちゃくちゃにしてくる映画は他にそうそうないと断言する。もしこの映画に少しでも興味を持ってくれたのなら、140分間、覚悟を持ってこの映画に心を揺さぶられてほしい。



コメント