映画『ひゃくえむ。』。
『チ。-地球の運動について-』でおなじみ魚豊氏による漫画を原作とした劇場アニメだ。
Netflixにて世界独占配信されている本作。「今すぐに観てください」という話を、これから長々と語ります。

今すぐ観てください
劇場で見逃したのを本気で後悔した。やべ~~おもしろすぎ~~~。
生まれ持って走りの才能があるトガシと、クソな現実から逃げるようにがむしゃらに走り続ける小宮という小学生二人の対比で物語が開始されるが、ライフステージの変化に伴いどちらも異なるタイミングでニヒリズムに堕ちかけたり、新たな才覚ある若手や急な全盛期がやってくる年上の選手などが立ちはだかったりと、単純なる二項対立になっていないのが面白い。「100mを誰よりも速く走り切れば勝ち」というシンプルすぎるルールに反して、人生は複雑すぎる。
アニメとしての脱構築
『THE FIRST SLAM DUNK』以降のアニメとして歴史に刻まれる作品ではないだろうか(ひゃくえむ。はロトスコープでスラダンはモーションキャプチャーだけど)。制作に1年を要したという3分間の長回しのシーン(1年!?)とか、本当に息を飲む凄みがあった。レース後に「雨」がすべてを覆い尽くすところがもっとヤバいのだけど。あまりの衝撃に脳が理解を拒む瞬間の心象風景ってこうなるよな。あ~~~、これに関しては観ないとわからんでしょ!今すぐ観てくれ。
ラストの決勝戦で、トガシと小宮が並んで極限の顔つきになるシーンでドラムの音量がどんどんぶち上っていくところも面白く、本作の監督:岩井澤健治が手掛けた映画『音楽』との共通項も感じる。こちらもとんでもない映画なのでぜひ観てほしい。ネトフリで観れます。
他にも、トガシと小宮が河川敷で100m走の核心について話すシーンで「この先凸凹あり」という標識が映るカットなども示唆的で非常に”映画的な作り”だ。

主人公二人の声優もそうだ。トガシ役の松坂桃李も小宮役の染谷将太もめちゃくちゃ良い。いわゆるアニメ文脈的な発声ではないことがリアリティに寄与している。
全編通してアニメ的な文脈を極限まで廃し、映画的なコードに則った構造をしているといえる。この挑戦的な作風がもたらす”良い違和感”が心地良いのだ。
🚨自分語り警報発令!!🚨
僕は高校時代にとある武道の部活に所属していて、高校の思い出といえばその部活のことくらいしか記憶にないくらい”ガチ”でやっていた(九州大会に4回くらい出て全国大会には3回出た。最高記録は全国3位とかだった)自覚があるのだけど、大学に入ってからはもうどこか抜け殻みたいになっていたんですよ。
大学でもサークルに入ってはいたのだが、どうしてもあの頃みたいに毎日その武道のことだけ考えていればいいという日々(本当はダメなんですけどね。大学入るのにも浪人したし。というか当時スポーツ推薦を出してくれた大学を蹴って浪人してその大学に入るという結果になったんだよな)が恋しくもあり、今はもう昔だよなぁという燃え尽き感が凄かった。
もちろんそれで友人にも恵まれたし、高校時代に対するオルタナティブとしての青春を謳歌した自負もあるのだが、心のどこかでは「もう一度ガチで何かやりたいな」とは思っていた気がする。そしてそれが、この作品を観るその日まで続いていた気がする。
いつしか、高校時代での部活においても「実はもっとやれたのでは」「あれは”ガチ”ではなかったのでは」という、過去の美化ならぬ「醜化」ともいえる呪いに近しい思いも抱えるようになったんですよね。「今がガチじゃないがゆえに過去にガチだったと思っていたものもエセガチだったのでは?」的な。
が、この作品を見て何かしらの禊になった気がする。陳腐な言葉だが、あの頃は確実に”ガチ”だったし、今からでも”ガチ”れると、シンプルに思えた。会社を辞める前日というタイミングで観れて本当に良かった。あ、転職しました。
こっから”ガチ”るぞ!!!!!!
自分語りの脅威は去りました!!
超克
劇中で、トガシに「変わったね」という言葉が投げかけられる。
創作においては、主人公が笑うようになったとか、何かしらポジティブな方向性におけるリアクションとして使われがちな言葉が、今作では一種の呪いとなって彼に降り注ぐ。「あ~変わっちゃったね~……」っていう。
それでもトガシの走りは、生活はつづくし、変わっていく。きっかけは海棠との出会いかもしれないし、仁神との再会や公園で遊ぶ見知らぬ小学生たちとの会話だったかもしれない。『落下の王国』のレビュー記事で書いたことにも通ずるけれども、自分の人生に影響を及ぼすのは結局のところ「他者」でしかない。たった100m、たった10秒を極めるという、シンプルゆえに呪いにもなり得る競技の周囲には、人生がパンパンに詰まっている。
そして、トガシは「逃避」する。親友に敗北し、記録は伸びず、怪我にまで見舞われるという現実から逃げて、逃げて、逃げることで、現実への対峙を手にする。現実逃避を通じて現実を超克し、走りへの恐れを走ることで解決するのだ。マッチョイズムとか競争社会のくだらなさへの言及といった外野の俗物などははなからお呼びではなく、たった100mの、極上の10秒間の研ぎ澄まされた無音へと足を踏み込み続けることが、すべてなのだ。



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