2026年1月30日に劇場公開された、ガンダムシリーズの新作映画『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ キルケーの魔女』。前作『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』から5年が経ち公開された本作は、シリーズものの続編アニメとしては異例の興収25億円突破という好成績を収めている(3/19時点)。
本作の最も特徴的な点は、「美しさ」と「見ていられなさ」の両立にあると感じた。その理由について書いていきたい。
あらすじ
U.C.0105、シャアの反乱から12年――。
圧政を強いる地球連邦政府に対し政府閣僚の暗殺という方法で抵抗を開始した「マフティー」。そのリーダーの正体は、一年戦争をアムロ・レイと共に戦ったブライトの息子、ハサウェイ・ノアであった。
不思議な力を示す少女ギギ・アンダルシアにかつてのトラウマを思い出すハサウェイ。彼女の言葉に翻弄されながらもマフティーとしての目的、アデレード会議襲撃の準備を進めるが……。
連邦軍のケネス・スレッグは自ら立案したアデレード会議の支掩作戦とマフティー殲滅の準備をする中、刑事警察機構のハンドリー・ヨクサンから密約を持ちかけられる。
そして、ハサウェイ、ケネス、それぞれが目的のために動く一方で、ギギもまた自分の役割のためにホンコンへと旅立つ。
公式サイトより
20年代における最高峰アニメ
公開してすぐに観に行ったのだけど、まず国内アニメーション作品として間違いなく現代最高峰レベルのクオリティだ。前作以上にアニメ的コンテクストが廃され、さながらクリストファー・ノーランの実写作品のようなカットが続き、それだけで映画館で観る理由になる。
MAPPA的な外連味のあるバトルシーンとも、新海誠的なスーパーリアリズムとも異なる、20年代におけるひとつの到達点ともいえるようなアニメに仕上がっている。正直、他のガンダム作品に触れていなくてもそのクオリティに圧倒されるのは間違いない。
ハンディカムで撮影された冒頭のパートで、グスタフ・カールが跨いでいくカットは間違いなく『パシフィック・リム』でのジプシー・デンジャーをリファレンスとしているだろうし、


乗馬したケネスとギギがレーン隊を横切っていくシーンでは、輸送機に格納されていくリ・ガズィカスタムの機種がケネスらの頭頂部とピッタリ平行に並ぶカットがある。ここには小津安二郎監督の、食卓における食器の並びの偏執的ともいえるこだわりにも近いものを感じた。

このような映像手法を、実写ではなくアニメで取り入れているということそのものがもうエポックメイキングといえるだろう。
見てらんない
リッチな映像とは裏腹に、本作におけるハサウェイは本当に「見てらんない点」が目立つ。
メンタルヘルス用の錠剤を頑なに飲まず、クェスの幻覚に惑わされ、トラウマから逃避するかのようにマフティーを演じる。これまで支えてくれていた恋人のケリアとはギスギスしていく一方で、他の女性陣からは謎にモテるし、男性パイロット陣も軽いノリでちょっかいをかけてくる。
端的に言って「学生運動ノリ」で、見ていて非常にしんどいものがある。大儀のもとに行動しているように見えるが、その実とても空虚なものに映るし、その中心たるハサウェイ自身は心身ともにボロボロなのだ。どの面下げてGuns N’ RosesのSweet Child o’ Mineを主題歌にしてるんだよ。そういう曲じゃないだろ。
極めつけは連邦軍所属パイロットのレーン・エイムが駆る急造MS「アリュゼウス」とのラストバウトにおける、ハサウェイのトラウマが掘り起こされるシーンだ。アリュゼウスのコアである「量産型νガンダム」の姿が露になった瞬間、ハサウェイはクェスとチェーンの死を思い出し、文字通り発狂してしまう。量産型νガンダムが被弾したアーマー部が奇しくもアムロのνガンダムのフィン・ファンネルのように見えてしまうのが悲しすぎる。人の心、なし?

スイッチが入ってしまったハサウェイは、レーン(というか量産型νガンダム)を完全にアムロだと誤認し、妄言を叫び散らす。シャアのセリフをオーバーラップしたかと思えば、アムロのセリフにも憑依する。「アムロとシャアの両方の意思を継ぐ者」というキャッチコピーがここにきて最大のアイロニーとして機能するのだ。この一連のシーンは演出自体も病的なまでにサイケデリックで、レーンが乗るコクピットにビームサーベルを突き立て、無言のままじわじわと焼き切ろうとするシーンまで本当に見ていられない。途中退席しそうになった。
美しさと見てられなさの両立
先述したように、本作は美麗な作画と、ハサウェイの見てられなさが両立した作品となっている。そして、この二つの要素が単に並列されているのではなく、ある種意図的に噛み合わないまま設計されているのが特異な点といえる。
本来であれば、美麗な映像が生み出す没入感は、物語への没入度を強めるはずだ。しかし、本作ではその美しさこそがハサウェイの不安定さを過剰に増幅させている。別荘から望むビーチが、風で揺れるカーテンが、雄大なエアーズロックが美しければ美しいほど、彼が壊れてゆく「見てられない姿」が際立つ。
つまり本作は、観客に気持ちよく没入させるための圧倒的映像美と、その没入を裏切るような主人公像を同時に提示しているのだ。構造上、「快」と「不快」が常に同時に存在することで、他のガンダムシリーズとは一線を画した爪痕を残している。とことん「快」を注ぎ込んだ『ミルキー☆サブウェイ』などとは対照的だ。なぜコラボしたんだ。
どこへ向かうのか
ネタバレになるが、原作小説ではハサウェイはケネスらに囚われ、処刑されるエンディングとなっている。トラウマを抱えた主人公であるとはいえ、テロ組織として活動しているという事実からは免れられないゆえの結末だが、果たして今の時代にこれほど救いのない結末になるのだろうか。
劇場版の新訳Zガンダムの例が顕著だが、時代を経て結末が改変されるケースは少なくないし、事実、本作は原作小説とは一部異なる設定・展開も散見される。次作の完結編で、ハサウェイに何かしらの救済が付与される可能性は高いのではないだろうか。
20年代におけるアニメ作品として金字塔といえるのは間違いないが、一方で、決して爽快感を求めるべきではない作品なのも確かだ。ガンダムに全く触れずに観てもそのクオリティに喰らってしまうだろうけれど、本作の核心に触れるためには、面倒でもぜひ『ファーストガンダム』と『逆シャア』を観た上で鑑賞してほしいと、面倒なファンながらに思う。







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