
2026年7月31日に劇場公開された映画『スパイダーマン:ブランド・ニュー・デイ』。マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)版スパイダーマンの4作目にして、前作『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』(以下、『NWH』)の4年後が舞台。
ドラマ作品の乱造やキャストの降板騒動など何かと話題に事欠かないMCUだが、久々の劇場公開作かつ日本でも人気なスパイダーマンシリーズ最新作ということで、期待と不安入り混じる中、公開日に鑑賞してきたので、がっつりレビューを残しておきたい。ネタバレ注意です。
前作とは別物
まず抱いた印象としては、前3作と比べて別物すぎる!!
それもそのはず、監督が前3部作のジョン・ワッツからデスティン・ダニエル・クレットン(『シャン・チー/テン・リングスの伝説』など)に変更されているからだ。冒頭のNY市街でのスイングシーンだけでも「あっ、これ全く違う映画をやる気だな」というのが痛いほど伝わってくる。『アイアンマン3』とか『マイティ・ソー バトルロイヤル』を観たときの温度差にも近い。

全編通して、ヘヴィでシリアスなムードが漂うスパイダーマン・ムービーになっている。ジョン・ワッツ監督特有のスタイリッシュでコミカルなアクションシーンはほぼなく、ピーターの境遇も相まって戦闘シーンの画はとにかく重たくて、爽快感に欠けている。「息子が学校でやらかしたときの家族会議」みたいな空気が終始漂っていた。
ワーカホリック
予告にもある通り、本作ではピーターの身体に異変が起きる。
世界中の誰もが自分を忘れ、叔母のメイやトニー・スタークは亡くなり、ハッピーもいない。馴染みのない地で孤独なヒーローをやっているピーターが疲弊しきっているのは当然だ。そんな彼に、精神的なストレスによるホルモンバランスの乱れで、頭痛や眼の黒色化など身体的な変化が訪れるのだ。
つくづく、『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』のMCU版だと思った。ワーカホリック的に疲弊するピーターは、まさしく現代における社会人の生き方の写し鏡であるといえるし、転換期を迎え「『スパイダーマン』か『ピーター』のどちらを選ぶ?」と問われた際に「両方だ」と答える様はまさしく”半身”であり、「働くし、本も読むんだよ!!」という、強かな抵抗に映る。


マスキュリニティ
その最大の身体的変化が、「手から直接ウェブが出るようになる」ことだ。さながらサム・ライミ版の「ピーター2」のように、手首から有機ウェブが出るようになるのだが、その変化は気絶から目覚めた際に初めて発生する。
部屋や衣服が白い有機ウェブまみれの中で目覚め、自身の身体の変化に戸惑いながら片づけを行うのは、「夢精」のメタファーに見える。ちなみに、幻となったジェームズ・キャメロン監督版スパイダーマンの構想でも同様のシーンが予定されていたようだ。
そもそも身体から”白い有機体が発射される”というのは言うまでもなく射精・あるいは男性の身体的な二次性徴そのものを描写しているともいっていいだろう(実際劇中では必要以上にドロッと出てくる描写もあって、明らかに……なのである)。サム・ライミ版のピーターはMJとうまくいかないときに、逆にウェブが出なくなるということがあったが、あれも男性の身体的な不調(≒ED)を描いているという解釈は当時から有力な見方だった。
自身の変化に怯えつつも、幼年期の終わりを迎えたピーターが身体変化に適応しようとする姿はまさしく”健康が最も重要な時代”を体現する姿勢だった。『NWH』までとは悩みの質が違っていて、「それでも生活がつづいてしまうこと」に主眼が置かれていたのが今の悩める現代人っぽいなと感じたのだ。
また、本作では予告にある通り、ハルクも登場する。しかもスマートハルク状態ではなく、長らく封印していた激オコモードのガチハルクだ。

洗脳状態にあったとはいえ、別人格の暴走を抑えられずに破壊の限りを尽くしてしまう様にも、男性性のメタファーを感じずにはいられない。
が、早々に洗脳は解け、中盤以降にあっさりと退場を迎えてしまうのは、自身の男性らしさの制御を獲得したピーターと比べて不憫というか、正直扱いの雑さが否めない。描きたいテーマが先行しすぎて、キャラクター登場の必然性がそこまで感じられないのだ。この辺りは次回作以降にてしっかりと補完されてほしい。
お祭り映画のプルス・ウルトラ
歴史的お祭り映画『NWH』と比べると、さすがにゲストキャラの出演は限られているが、それが逆に地に足のついたスパイダーマン映画としての性質の担保になっているのが良かった。メインヴィランとして登場した、テレパシー能力のある「ジーン・グレイ」に対し、メイがピーターに告げた言葉が一言一句全く同じ形で響くシーンも救済として見事だったと思う。
一方で、前述したハルクの扱いの雑さや、回想シーンの野暮ったさ、コミックのパロディとはいえあまりに2000年代的すぎる冒頭のスローモーションダイジェスト、「パニッシャー」のロールとしての不十分さ(お前が無鉄砲に銃撃したからピーターは瀕死なんだが? という身も蓋もなさ)など、気になる点はあることにはある。
生活はつづく
思うに、本作は公開までに何度もプロットが書き換えられたのだと推察する。本流のアベンジャーズのストーリーも、不祥事などもありかなりストーリーラインが見直されているし、「『NWH』の後に何を描くべ……?」というテーマ選定についての心労は想像に難くない。
前作までのクロスオーバーフェスティバルに決着をつけた上で、2026年の今に「スーパーヒーロー映画」をやる意味の再定義。DCが『スーパーマン』(2025)で、紛争に中指を立て”優しさ”としてのパンクアティチュードを打ち立てたのに対して、マーベルは本作で「排外主義にNOを表明しつつ、生活を続けていく矜持」を示した。
本作においてピーターやジーンに対して救済の手を差し伸べるのは、スーパーソルジャーであるキャプテン・アメリカでも雷神ソーでもインフィニティ・ストーンで決死の反撃をしたトニー・スタークでもなく、ただの善良な一般人「メイ」なのだ。それも、「あなたは特別だから愛されるんじゃない。あなたのままでいるのが一番の責任」という、これまでのスパイダーマンシリーズを象徴するキャッチフレーズをさらに一歩進める形で。
ジョン・ワッツ3部作からの温度差で風邪を引きそうになりながらも、また、ところどころの演出や展開に気になる点はありつつも、扱うテーマに共感と敬意を示したい。鑑賞後に「俺も俺の生活をしつづけるぞ」と決意を新たにするような傑作だった。地に足をつけながら。親愛なる隣人を想いながら。




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