開店待ちをしたことがない。飲食店でも、映画館でも、家電量販店でも。コロナ禍でのマスクの販売が限定されていた時でさえ、家の向かいのドラッグストアに並ぶ列を見て「へっ」と溢して眺めていた。このご時世によくわからん布のためなんかに炎天下で大勢の列を成して、むしろそこで感染しそうだわいなどと口をへの字に曲げ屁理屈をこねるさまは、傍から見るとさぞ醜かったであろう。
今思えば、彼ら彼女らはそうせねばという思いの下にそうしていたわけで、切実な欲求の表れだったわけである。マスクを求める列も、人気のラーメン屋に並ぶのも、ガンプラを買うためにヨドバシカメラに並ぶのも(転売ヤーは許さない)。
列に並ぶのが昔から苦手だ。それはずっと「並んでいる時間が暇だから」という理由によるものだと思っていたのだけど、よくよく考えると違う気がする。「自分の欲望が可視化されるのが嫌だから」なのだ。行列に並ぶ人は食べたい・買いたいという欲求を表出することを恐れていないという素直さがあり、それはとてもかわいらしいことだと思う。残業後に疲れてそうなサラリーマンがコンビニでスイーツを買おうか迷っている姿なんかはかわいげの塊である。抱きしめたい。
思うに、自分がしたいことを「したい!」と臆せず表明することにこそ、かわいげが宿るのではないか。
一般的に、わがままな人は嫌われるというのが摂理だが、人と関わる上で「私は断固としてこうしたい!」という我の強さが、あたかもそれが最後のピースだったかのようにガッチリとはまる瞬間は往々にしてある。結構、ある。僕は末っ子というのもあり、おそらく無意識にそのピースがはまる穴を見つけるのが割と上手い気がしていて、実際多くの局面でそのスキルに救われた瞬間があるのだろうと思う。
その一方で、かなりどうでもいいところでどうでもいい自意識が発芽する。行列に並ぶのもそうだし、回らない寿司やバーのカウンター席などが最たる例だ。大将に「へぇ、そのチョイスね」と、隣席の常連に「ノンノン、それはモグリだよ~」と思われていないか、異常に気にするところがある。「ボク実は初めてで何もわからないんで教えてください!」を出せずに、無意味な知恵の輪をずっと解こうとしている感覚になる。
いや、もしかしてこれもかわいげなのか?いつもは適切なタイミングで欲求を表明するかわいげがあるのに、高級店のカウンター席では自意識の肥大により戸惑ってしまうこともあるという点で、さらに一段奥のレイヤーにあるかわいげ。かわいげの入れ子構造。かわいい僕をカポっと外すと、中にはちょっと小さいかわいい僕が出てくる、かわいげのマトリョーシカ。かわいいね。スパシーバ。
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